日本橋とよだ  
文久3年から受け継がれてきたおもてなしの心

文久三年創業。
一五七年紡いできた技術と心を。
明日へつなぐ。

建て替えによる一時休業のご案内

平素より当店をご愛顧頂きまして誠にありがとうございます。 2019年12月を持ちまして、ビル改修工事のため一時休業いたします。

親愛なるお客様へ

この度、日本橋とよだは本年末をもって休業いたすことになりました。
幕末文久に初代豊田米吉が鮨屋台から店を興し、明治5年に日本橋本石町(現室町3丁目)のちに料理屋を構えました。以来153年に亘り、幾多のお客様に支えられ、そして、育まれて参りました。 昭和36年に現在地である室町1丁目に移転し新築した店舗も60年を迎えようとしております。老朽化には逆らえず止む無く建替えることに致しました。
新店舗での営業開始は2021年秋頃を予定しております。
私事ではありますが、創業100年目という節目に私は生まれました。
18歳で包丁を持ち始め、2020年にはちょうど40年を迎えます。
私の料理人人生の集大成として、新たなお店を創ります。
お店の規模も目の届く範囲にとどめて、今迄よりも席数は減りますが、その分お客様お一人おひとりにご満足いただける行き届いたおもてなしができますよう奮闘努力して参ります。新たな店舗で皆様をお迎えすることは、私自身、その時が待ち遠しくてなりません。
これまでご贔屓くださいましたお客様に心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

令和元年 十二月
店主

割烹 日本橋 とよだ  
創業からこれまでの歩み

文久3年1863年

幕末の文久3年、当時日本橋には魚河岸があり日に千両の商いだったと言われています。そんな活気溢れるお江戸日本橋で豊田米吉が鮨屋台から商いを始めたのが当店の出発店でした。店名は「天狗寿司」。米吉は14歳という若さでありましたが、時代背景を考えると決して若すぎる年齢ではなかったそうです。

当時は寿司ダネの種類も豊富ではなく、小振りなものが多かったと言われています。

冷蔵庫が発明されていない時代であり、氷も高価であったことから、酢でしめたものやアナゴやハマグリのように一度火を入れて煮込んだもの、赤身の醤油漬けが中心であったと言われています。西郷隆盛もしばし立ち寄り、「あかべろべろのしょっぱづけ」を好んで食べたと伝えられています。あかべろべろのしょっぱづけとは薩摩藩のお侍さんたちがまぐろの漬けを呼んだ名称で、赤い舌をしょっぱくつけたようなもの、という意味があります。

明治5年1872年

米吉は日本橋石町2丁目(現在の室町三丁目)に鮨店「天狗寿司」と料理屋「とよだ」の二店舗を構えます。最大の謎はわずか10年で二店舗を構えることができたという点です。屋台の収益では到底考えられないため、どなたかのご支援があったのかもしれません。当時は鮨店よりも料理屋の方が格式が上だったことから、米吉にとっては相当なステップアップだったことがわかります。

明治5年に新築した店舗。大正12年の関東大震災までこの店舗で営業した。この地は現在、コレド室町テラスとなっており、大通りに面した角地のあたりです。

澤山持込帳(たくさんもちこみちょう)
新築の際にいただいたご祝儀の控帳。
すでに多くの方からご贔屓にして頂いていたことが分かります。

明治28年1895年

営業許可証
時の警視総監による許可となっています。

明治31年1898年

橋本喜太郎が二代目当主となる。喜太郎の妻てつは阪東妻三郎(田村伝吉)の母はるの実姉にあたります。二代目は姓を豊田から橋本に改めます。なぜ姓を変えたのか史料が残っておらず未だに謎のままです。

大正12年1923年

関東大震災にて店舗を焼失しました。

昭和2年1927年

橋本豊吉が三代目当主となる。寡黙でとても厳しい職人気質の料理人であったと伝えられています。その一方で困った人を放っておけない性格でした。知人の連帯保証人になってしまい、結果的に店舗の権利書を失ってしまいかねない事態になりました。親類に立て替えてもらったことで、なんとか存続ができました。

昭和3年1928年

関東大震災から5年後、昭和3年に同地に改築することができました。落成披露の挨拶状が残っています。たくさんのお客様のご支援があったことで、わずか5年で店舗を改築することができました。

改築した店舗

当時の当店のロゴ文字は変態仮名を使っていたことが分かります。

昭和19年1944年

戦時中はいわゆる贅沢を禁止した法令のために営業停止になっていました。焼け出された親戚たちが集まって座敷で寝泊まりをしていたそうです。四代目当主橋本敬は当時10歳でした。空襲の際は火の粉を払って三井ビルの地下や日本橋三越の地下(当時防空壕として使用されていた)に逃げ込んだことを記憶しています。

東京大空襲では店に落ちた焼夷弾が偶然にも不発弾であったことで戦災を免れました。また、日本銀行が近隣であったため、日本銀行消防隊の必死の消火活動により焼失を免れました。

終戦後

食料もなく、料理屋に人が来るような時代ではありませんでした。子供であった四代目当主は東京銀行本店のエレベーターで勝手にエレベーターボーイのアルバイトをし、進駐軍の兵士からその対価としてトマトケチャップの缶詰をもらっていたそうです。兵士が捨てた煙草を拾い集め、紙で巻き直し、新たな煙草を作ったりと、必死に生きぬいた時代でした。

昭和32年1957年

三代目豊吉は他界する1か月前まで調理場にたっていました。医者に「なぜここまで放っておいたのか」と言われるほどでした。最後まで返済のためにひたむきに仕事と向き合った結果でした。

橋本敬はわずか23歳という若さで四代目当主となりました。若い当主であったため、酒屋や食材の卸問屋とこれまで通りの取引ができなくなったこともありました。当初は苦労しましたが、少しずつ応援してくださる取引先も増え、店も次第に活況を取り戻してきました。

業界功労により平成7年藍綬褒章、平成19年旭日雙光章受章いたしました。

昭和36年1961年

現在の室町一丁目に移転しました。この時から割烹料理一筋となりました。 新店を建築する際に地下から木製の生簀が出てきました。このあたり一帯が日本橋魚河岸(築地に移転する前の市場)の跡地であり魚屋があったということが分かります。

昭和39年1964年

10月10日東京にて第18回東京オリンピックが開催されました。
オリンピックが契機となり高速道路の急速な開発が進みました。日本橋においても真上に高速道路が通ることになりました。地元では賛否両論が巻き起こったとのことです。

昭和40年代1965年~

日本橋本町は徳川家康の時代から続く「くすりの街」と言われています。その名残もあってか今日でも大手製薬会社の本社や外資系の製薬企業が軒を連ねています。昭和40年代当時は経済成長に伴い、製薬会社様を中心とした仕出やお弁当のご用命を多くいただきました。一般的に外食を頻繁にするような時代ではなかったため、こういったご依頼が当店の経営を支えて頂いたことは言うまでもありません。

昭和50年から60年代1975年~

日本の好景気とともに、接待などの需要が高まったことで、当店も大変な賑わいを見せました。当時は麻雀接待、カラオケ接待などが流行し、当店の座敷にも麻雀卓やカラオケセットを設置していたことがあります。

昭和59年頃1984年頃

当時のパンフレット。

平成7年1995年

橋本亨が5代目当主となる。

創業明治5年の老舗料亭・割烹 草津亭にて、宮澤 退助氏のもとで7年半修行。平成5年 在独日本大使館の公邸料理番として渡欧。
園遊会や新嘗祭、大嘗祭等の皇室行事、宮内庁が執り行う儀式等においても15年以上にわたり料理人を担当してきた。
無外流居合 免許皆伝 範士八段でもある。

平成11年1999年

2000年という新たな時代の幕開けに際し心機一転店舗を改装いたしました。
お客様の目の前で料理を提供したいという想いから新たにカウンター席を設けたり、落ち着いてお食事いただける掘り炬燵のお座敷を設けたり、大幅な店舗改装を行いました。

神棚の上には昔の看板が埋め込まれています。

カウンター

書家の赤井清美さんに書いて頂きました。

平成22年2010年

寄席文字書家の橘右之吉さんに看板の文字を書いて頂きました。

令和元年12月2019年

ビル改築のために一時休業いたします。

2021年秋 新たな一歩を踏み出します。

157年間という歴史を紡ぐことができたのも偏にお客様のお陰でございます。
当店は2021年秋、新たな一歩を踏み出します。
今後とも変わらぬご愛顧のほど何卒よろしくお願い申し上げます。